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芥川賞受賞作家安岡章太郎さん(中10)逝去1920~2013

走れトマホーク・僕の昭和史2転校先でいじめに
母校同窓生の中で著名人は?と問われれば昭和生まれなら、まずこの人の名が挙がる。1951年デビュー作『ガラスの靴』がいきなり芥川賞候補作。2年後『悪い仲間』『陰気な愉しみ』で芥川賞に。その後も名だたる文学賞を総なめにし、対談の名手としても名高い。芥川賞選考委員を長年務めるなど文壇にも貢献し、2001年に文化功労章を受章した。
出身地は高知だが、父親の職業により千葉、香川、ソウル、青森と転々、生地の記憶は薄いという。11歳で東京・青山の偕行社住宅入居。転入学した青南小学校では陰湿ないじめにあう。そんな中、第一東京中学校の評判を聞きつけた女学校出の母親に猛勉強させられ、「運よく」母校に入学できたのだそうだ。
長期にわたった一中「入院」
当初は「東京の公立校では二流校」とタカをくくった安岡氏。1学期が終わってみれば組で最下位の成績。3学期からは禅寺の住職でもある国漢文の英敏道先生の家に寄宿する破目になる。当時の一中では、成績や素行で問題がある生徒は、「入院」と称し先生宅お預かりとなった。入院は広い住まいのお宅ばかりではなく、新婚早々の狭い先生宅で「困った」とか、エピソードは尽きない。かくして安岡氏は、平日は寺から通学、日曜日は境内や墓地の落葉掃除で勝手ままならず、おまけにほどなく親は地方転勤。入院生活は3年間に及ぶ。これでは氏が一中時代の楽しい思い出を持たずとも仕方ない。
『自叙伝旅行』によれば、昭和8(1933)年入学時、すでに創立時のイギリス人教師による英語授業はなく、洋式のテーブルマナーを教える授業も廃止、「作法教室などは校則を犯して煙草を吸ったりした生徒が柔道の師範に鉄拳制裁を受けたりする場所になっていた」。至大荘については、「ひ弱そうな者ばかりを狙うノミとの格闘」の記憶ばかりが描かれている。しかし別のインタビューでは冬の至大荘での禊など先生方が率先して海中に飛び入る姿に敬意を表してもいる。劣等生ならではの冷めた目線で、孤独を秘かに楽しむ一中時代を送ったのだろう。
一中時代を題材にした代表作に、中学高校の国語教科書に載っている「サーカスの馬」(1955年)と「花祭」(1962年)がある。
慶大在学中に同人誌発行
脊椎カリエスを患いながら、日米開戦の41年、4浪の末に慶大予科(仏文)に入学してからの安岡は、変貌する。クラスメートで後に稀代の日本画家となる小泉淳作が述懐している。「休み時間には兄貴分格の安岡を囲んで談笑が聞こえ、シャンソンの合唱が流れた。安岡は意外にも流麗に『巴里祭』などを歌った」と。文学を目指し始めた安岡氏は、軍事教練中にも楽しげにそっとストーリーを語って聞かせた。「無類に面白かった」と小泉氏。在学中に入営もするが、胸部疾患で現役免除。学生時代に創ったクラス同人誌で発表した冒頭の『ガラスの靴』が世に認められた。父の、陸軍獣医官という職業を嫌い、友人の一人もいない屈折した青少年時代に味わってきた視座が、作家のエナジーとなって爆発する。
『海辺の光景』『流離譚』『僕の昭和史』
代表作を3つ挙げたい。どれも作者の分身、私小説と言ってもいい。60年『海辺…』は認知症となり、故郷・高知の施設で最期を迎える母を、父と共に訪ね看取るまでの9日間の物語。これで芸術選奨・野間文学賞を得てロックフェラー財団に招かれ米国留学、人種差別の実態を目の当たりにする。戦後屈指の歴史小説と評される『流離譚』81年は、安岡一族を遡り、幕末維新の動乱に天誅組に参加し、あるいは戊辰戦争の犠牲になった先祖たちの運命を活写した。『僕の…』全3巻は戦後までの不穏な社会を生きた氏の観察記。不明な時代の空気を平易な日常語で語り尽くす。嘘偽りのない昭和の庶民感情を知る貴重な資料だ。生涯に200余りの作品を書き、文壇に愛された安岡氏。天国で待ちくたびれた盟友・吉行淳之介や心友・小泉淳作に呼ばれたのか、天国で再び愉快な時を過ごしているに違いない。2013年1月26日逝去、享年92。
(田ノ倉美保子・高15)

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