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創立90周年記念号2014『我等の学園』~九段の真髄はここから始まった

1924年九段の歴史が始まる
第一東京市立中学校は関東大震災の翌年に創設。当時、東京市の府立中学校は5校、私立中学校は28校で、毎年増加していく志願者を収容する中学校数は不足。さらに大震災により私立中学校の多くが被害を受けたため、市立中学校の設立は急務でした。東京市は一中(九段)・二中(上野)・一女(深川)の3校の設立を計画し大正13(1924)年4月14日に一中の設立が認可され、初代校長として東京市視学の職にあった成田千里先生が就任しました。

強烈な個性と抜群の指導力
成田校長は普通の校長とは違い、学校そのものの生みの親であり、自ら進んで第一東京市立中学校を創設。教職員は優秀な人材を全国から集め、全市内から志願した優秀な生徒202人を第一期生として、半蔵門仮校舎(麹町高等小学校)でスタートしました。まず成田校長が掲げた教育理念は「全人教育・生活教育」で、これは創立当初から現在に至るまで脈々と継承されている九段の生命線といえるでしょう。「第一流の人物たれ」と「第一の教育」を目指す意図を明確にするために、校名を敢えて「第一」東京市立中学校としました。一中の新教育の象徴でもあった制服は英国のイートン校を模して背広とし、一目で一中生と見分けられるように帽子に白線を入れ、靴は赤皮靴、ランドセルを背中に、と中学生の服装としては異彩を放っていました。成田校長自身も「大理想の教育をする」という気構えから、毎日モーニングを着て登校。校舎新築の予算獲得などの施策に当たっては市当局の反対や周囲の非難を押し切り、昭和2(1927)年12月に中学校校舎としては全てにおいて常識・概念を超越し、東洋一と言われた校舎を完成させました。人知れぬ苦心と非凡な政治的手腕を発揮された太っ腹の校長でした。

戦後給食の先駆けとなった栄養給食
201407-sp01当時成田校長は栄養協会の理事としても栄養問題を研究し、都市の青少年に偏食からくる栄養不良が多いことに着目。栄養食の大家、国立栄養試験所長佐伯博士の指導の下、全職員・生徒に栄養給食を実施し、戦後給食の先駆けとなりました。後に新校舎の地下に約1200~1300人を収容する食堂を造り、昼食時に師弟が食を共にする伝統は戦中まで続き、また紳士教育の一つとして、食後一人3分間のテーブルスピーチや修学旅行に先立つ研究発表会、今でいうプレゼンテーションも行われ、実際に卒業後社会に出てから役に立ったそうです。

一中の教育は至大荘の生活から
201407-sp02成田校長の非凡さと先見性は至大荘の建設にも窺うことができます。智・徳・体、三位一体の「全人教育」の理想を掲げる成田校長と一中にとり林間・臨海の校外学園の建設は必須でした。少年時代の夏季訓育は海を伴う所でなければならないとの考えから、昭和2(1927)年3月に千葉県興津町守谷に臨海施設建設用地を購入、至大荘建設を実現させました。夏は14年生が20日間、冬は10日間にわたり水泳・勉強・マラソン・騎馬戦などの至大荘修養団生活が戦争で一時中断されるまで行われました。身心鍛練の場として至大荘での共同生活は、強く生徒達の脳裏に刻まれ「至大荘精神」即ち「第一スピリット」の形成に影響を与えました。

四宮茂第2代校長と父兄の熱意
201407-sp03一層の教育環境の充実を図ろうとしていた昭和4(1929)年2月、成田校長が突然退職。
後を継いだのは四宮茂教頭でした。すでに不景気の時に贅沢すぎるという批判もあった新校舎に加え、深刻な恐慌の世に体育館・屋内プールなどを建設しなければならなかった四宮校長の苦労も大変でした。その時、金策のために奔走を続けた学校の大きな蔭の力になったのが父兄会でした。万策尽きた父兄会の席で持参の預金通帳を取り出し、資金全額の融資を引き受けた父兄も現れ、父兄会の目覚ましい活動と寄金により体育館・屋内プールが完成。さらに都心にあって校庭の狭さを痛感していた四宮校長は、体育演練の場として至大荘とは別の校外施設を近郊に開設しようと構想。父兄からの寄金で稲城村多摩川の畔に2万余坪の広大な敷地を購入し、昭和12(1937)年11月尽性園が開園されました。こうして成田校長の描いていた壮大な夢は一つ一つと実現されていきました。(高橋暁子・高17)

-出典:創立50周年・70周年記念誌-

創立90周年記念号2014 目次>
ワルツの校歌
戦争の激動の中で
男子校から共学校へ
九段の歴史と伝統を繋ぐ
至大荘開設前夜
沿革

 

ワルツの校歌

与謝野寛(鉄幹)作詞、山田耕筰作曲になる輝かしい校歌ができたのは昭和3(1928)年1月。♪都の中央九段の上に堂々高き、東洋一と賞賛された校舎完成の翌月、一中創立4年目のことです。歌詞は巻紙に墨跡麗々と記され献納されました。「校歌が出来た。みなよろこび勇んで歌った」とその日の『学校日誌』は歌声のように文字も踊っています。
関東大震災後わずか9か月で新設された成田千里校長率いる一中には著名人らの優秀な子弟が押し寄せました。鉄幹の名前で知られた作詞者も3回生の父親です。校歌2番♪東に青海/西に富士。東京にはありえない地形ですが、青海はもちろん興津。さらに校長の口癖「富士に腰かけ太平洋を見渡す」と掛けたところが歌人の巧み。♪静かに想いを深め/自ら守る心は/洋々底なき海に比べん、時代や周辺に惑わされず洞察力を磨き、信ずるところを生きよと、続きます。昭和の初期にこれほど強くしなやかな歌詞を持つ校歌は唯一無二ではないでしょうか。
作曲の山田耕筰は、ドイツに国費留学し近代音楽を学んだ実力者。国も自治体も競って仕事を発注、名曲赤とんぼをはじめとする数々の童謡、軍歌、校歌と精力的に曲を作っています。
しかし一中校歌作曲の頃の日本は震災恐慌に加え、後に昭和恐慌と言われる不況下にあえいでいました。2拍子4拍子が定石の校歌をワルツにしたのは「あえて」だったはずです。閉塞感を打ち破り未来を開く任を担った少年達に、行進曲より舞踏曲を!
校歌は、創立時の理念や理想を大人達が情熱込めて詠いこんだもの。成田の豪気、与謝野の繊細、耕筰のワルツ!何と素敵な校歌でしょうか。

(田ノ倉美保子・高15)

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戦争の激動の中で

日本一を目指す我が母校の思い出—中澤忠光(中18回)

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昭和16(1941)年大東亜戦争勃発の年、4月1日に第一東京市立中学校18回生、二百余名の入学式が大講堂で挙行され、その中に私も意気揚々として胸を張り座っていました。制服は洒落た紺の背広にネクタイのはずでしたが、戦時中のため野暮ったい全国統一のカーキ色国民服になり、本当にがっかりしました。
目黒区の八雲小学校の時、2年生から6年生まで連続で担任していただいたのが、奇しくも市立一中4回生の小林主計先生でした。成田千里先生の秘蔵っ子で、その小林先生が『どうしても中澤君を市立一中に入れたい』と押し込んでくださいました。第一の師の恩と、因縁を感じています。
創立当初の頃や戦後の時代と比べ、我々の頃は楽しい学校生活や授業の思い出は、あまり無く戦時下での学生生活でした。昭和19(1944)年、4年生になると戦況いよいよ逼迫して、次第に勉強どころではなくなり、授業も廃止。勤労動員として専ら動員先で奉仕しました。東京都の資料や書類の疎開を手伝ったり、4年A組の我々は、板橋にあった秋田木材のベニヤ板製造工場に毎日通勤しました。無蓋貨車から大きな原木を転がり落とす作業から、できあがったベニヤ板梱包まで何でもやりました。
楽しみにしていた至大荘行事も戦況厳しく中止となり、国の号令に従い食料増産のため、尽性園でさつまいもなどを栽培する作業もやりました。このようなどさくさの中で、昭和20(1945)年3月27日、4年で修了し繰り上げ卒業となり、4月6日、東京から広島の海軍兵学校へ向かいました。一中在学中は戦争に翻弄され、つくづく教室で勉強したかったなーと思いました。戦争では中1回から中14回までの100人を超える先輩達が命を落とし、「アーミイ&ネイヴィ菊友会」として戦没先輩を鎮魂・慰霊し、まだ洩れている多くの方々の調査を続けています。
人生のスタートで奇しき縁で市立一中に入れて頂いた事は、その後の長い人生を今振り返ってみて大きな幸せでした。

戦中から戦後の九段中生活—鈴木謙一(中21回)

201407-sp31私が九段中学で過ごした時期は戦中から戦後にかけての激動の時期であった。
入学は昭和19(1944)年、クラスはB組で緑の襟章であった。入学は前年の都制移行により市立一中から都立九段中学に変わっていたが、校歌は「第一東京市立中学」と歌っていた。戦時中の事で、紺の背広に革のランドセルという一中スタイルは見られなかった。時局を反映して、柔道も剣道も必須科目で、やがてこれに軍事教練が加わった。ただ、注目すべきは戦時中にもかかわらず、学校給食が行われていたことだ。それも当時は食糧不足で、日頃校舎の脇に吊り下げられていた茶褐色の色をした乾燥大根の煮付けをおかずとしてよく食べさせられた。それを私たちは、殺人大根と呼んで敬遠していたが・・・。
当時私たちの一年上級生は勤労動員、一年下からは学童疎開、それで私たちの学年といえば、大八車を引っ張って行って空襲による類焼を避けるべく、国が強制疎開として指定した御屋敷の取り壊し作業をさせられた。
昭和20(1945)年3月9日夜半から、10日未明にかけての東京大空襲の際には、3百数十発の焼夷弾が校舎に落下し、工作室別名チョウク部屋(工作の吉田先生が怒ると生徒にチョウクを投げたのに由来)の一部が焼けた。運動場には無数の不発焼夷弾が突き刺さっていた光景に唖然とした。
私の家は、その年の5月24日~25日の第3次東京大空襲で全焼し、やむなく水戸へ疎開して、そこで終戦を迎えたが、東京への帰心絶ち難く間もなく築地の知人の家に寄留して九段中に復学した。旧友と再会し、お互いの無事を喜び合った時の感慨は忘れることができない。
終戦の学校生活は、一転して開放感に包まれた楽しいものとなった。私は、硬式野球部に所属し、尽性園での強化練習など、白球に青春の夢を追った。
九段中を離れてはや65年、「混乱期の青春」をともに過ごした友人達との交友の絆はとりわけ強く、同期の会が毎年10月、休むことなく続けられている。

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男子校から共学校へ

九段高校初めての女子生徒—柳沼(松尾)光枝(高4回)

九段高校に初めて女子10人が入学したのは昭和24(1949)年、他校に1年先がけてのテストケースでした。共学クラスは特別編成で、アチーブメントテストを受けて入学した新制中学からの共学経験者が殆どで、特に緊張感もなく中学の延長のような感じでした。女子のうち2人は親の薦めで私立の女子校からの転校でしたがすぐにとけこめました。
その年皇居一周のマラソン大会で女子は救護班でしたが共学クラスが優勝し、担任の小川先生(後の小川定胆第6代校長)の笑顔のもと更にクラスがまとまったと思います。初めて女子生徒を受け入れる時のことを或る先生が「異常なまでの緊張と配慮」と言われましたが、当時緊張されたのは先生方のほうだったようで、クラスが1階の職員室の隣だったのも目の届くところにということだったのでしょう。放課後見回りに来られた小川先生に「早く帰れ!」と怒鳴られたことは度々でした。
特別編成クラスは1年だけで、次年度からは在来の九段の方達と一緒になりました。女子は5人ずつ2クラスに分散。在来の九段の方達の中に入ると学力の面では辛い思いもあったようですが、ジェントルマン教育という伝統の中で、同学年ばかりでなくクラブ活動などを通じて先輩の方達にも温かく受け容れて頂けたことは幸せでした。更に次年度になると学年全体が外部からの新入生で女子も90人となり、ほっと気が楽になったのは注目の的からの解放感とでも言ったらよいのでしょうか。当時の後輩の女子の方が九段で自由にのびのびと過ごしたと回想されるのを聞くのも嬉しいことです。

初めての女子天文部員—養父(井野)明子(高5回)

私達高5回生は昭和25(1950)年4月、新制の「6・3制」を修了し、学区制・単独選抜により本格的に男女共学になった最初の女子生徒です。前年の昭和24年には試験的に10人の女子生徒が入学し、すでに男女共学は始まっていました。
クラブ活動は一中時代からの伝統を持つ天文部に入部。終戦直後の東京の空は綺麗で夜空が好きになり、九段天文部創設以来初めての女子部員となりました。当時の天文部は2年生、3年生の男子ばかり4人の小所帯。文化祭など何か行事があると卒業された先輩達が応援に来てくださり、部員より多く集まりました。オリオン座観測、日食観測など思い出はいっぱいで、特に深夜の流星観測では終電までということで、顧問の大崎正次先生が学校に掛合って下さり参加できました。信濃町の家まで先輩が送って下さったことも。遅くまで屋上で粘っていたのも、帰りに先輩におごってもらうという楽しみがあったからかもしれません。先輩たちは観測の後はトランプや麻雀に興じていたようでしたが。
1年生の夏合宿は至大荘か富士登山かの選択で16人が富士登山。この時も女子はひとりだけで大崎先生には何かとご心配をお掛けしました。7合目の山小屋から深夜出発、満天の星を見ながらの登山、山頂から御来光を見た時の感動は忘れられません。
※高14回の女性達が中心となり関西菊友会を立ち上げ、養父さんは現在副会長を務めています。

初の女子会長になった思い出—井上(斎藤)輝子(高12回)

どうしてその気になったのかは思い出せないが、私は昭和33(1958)年、2年生の後期に生徒会選挙に立候補し会長に当選した。九段高校初の女子会長になったわけだが、当時女子系以外の高校で、女子の生徒会長は例がなかったため、全国紙からも取材された。新聞社名は忘れたが、記事の内容は今でも覚えている。1つは、なぜ女子が生徒会長になったかといえば、「男子は受験勉強に忙しく、生徒会活動などやっている暇がない」という説明。2つ目は「女子の会長らしく、‘和’を重んじ、うまくまとめている」との評価。どちらも私が「女子」であることを強調した内容で、憤慨したのでいまだに覚えているわけだが、確かに当時、生徒会への関心が低かったことは事実のようだ。総会が定足数に達せず、苦労したことを思い出す。では女子は受験勉強してなかったのか?といえばそんなことはなかったはずなので、この記事はいかにも男性記者の目線で書かれたものだと、今ならツッコミを入れたくなるところだ。
菊友会の高橋暁子さんが送って下さった『九段新聞』第63号の「斎藤会長との一問一答」によれば、私の公約の具体策として-1H.Rの再検討 2集会の充実 3女子の発言しやすい環境づくり-を挙げている。3を入れてあるところが、いかにも私らしい気がする。
私は1970年代に「日本でも女性学を」と提唱し、以来女性学の普及・発展に力を注いできたが、その原点は九段時代に「女子」であることを意識させられたことにあったのかもしれないと思う。ほろ苦くも甘酸っぱい、青春の思い出の1コマだ。

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九段の歴史と伝統を繋ぐ~さらなる発展のために~

母校を見守る同窓の輪—菊友会顧問・学校経営評議会会長 岡田 肇(高10回)

理事・広報委員→副理事長・広報委員長→副会長→会長→顧問。私が初めて理事会に出席したのが平成13(2001)年12月。3年程度のおつきあいでお役御免の積もりだったのに、運悪く(?)母校が都立から千代田区立になるという歴史の節目に巡り合ってしまった。菊友会とは全く縁がなかった私にとって、13年間はまさに運命のいたずらとしか思えない。

平成14(2002)年2月、「千代田区が区立の中高一貫教育校を計画。都立九段高校の移譲を要請へ」という記事が各紙の都内版に一斉に報じられた。菊友会にとって大事件だった。菊友会の役員や理事たちは再三対応を話し合ったが、否定的な反応が大勢だった。5月の評議員会で「不賛成」を決議、都教委に「都立としての存続を求める要望書」を提出した。千代田区は都教委に都立九段の移譲を正式に求め、都教委は菊友会を含む関係者への意見聴取を経て、10月に移譲を決定した。

都教委は決定に際して具体的な移譲条件の検討を求め、12月に都教委、区教委、九段高校、および菊友会の4者による委員会が発足した。菊友会は九段高校のPTAや生徒会、教職員とも意見交換を重ねた。時には深夜まで激論を続けた。同窓会からも様々な意見が寄せられ、この時期に開かれた総会や各学年の同期会、クラス会では熱い議論が戦わされた。卒業生が母校の将来についてこの時ほど熱くなったのは初めてではないか。

委員会は5回の会合を重ね、翌15年3月に報告書をまとめた。骨子は(1)千代田区立中等教育学校は都立九段高校を母体とする、(2)至大荘行事など伝統的学校行事や行事歌は継承する、(3)校歌は九段高校の校歌を継承し、校旗・校章は九段高校のものをベースとする、(4)九段高校と中等教育学校の同窓会はつなげて行く、(5)九段高校の更なる進学実績の向上を図る、といった内容。

区立化に当たって菊友会がもっとも懸念したのは、市立一中以来の伝統が新しい学校に継承されるか、という点だった。この報告書で伝統継承の条件は整ったと判断し、菊友会はこれ以降、区立九段開校の準備に関わることになる。平成18(2006)年4月5日、新入生160人の入学式と区立九段中学から編入した2、3年生計305人の編入式があり、15日には開校式典が開催された。平成21(2009)年3月都立九段高校最後となる高61回生の卒業式があり、続く閉校式典で都立九段の歴史は千代田区立九段中等教育学校に引き継がれた。

区立九段の校長の学校運営を支援するため、区教委は開校と同時に学校経営評議会を設置した。教育施策、予算などを協議し、意見を述べる。委員は菊友会、保護者、地域、企業などから区教委が委嘱し、現在は8人。菊友会の副会長や会長として移譲問題をリードされた高野光正先輩の後を受けて4年前から私が評議会の会長を務めている。私は学校運営が九段の伝統から外れていないかどうかという観点から物事を判断しているが、「菊友会がこだわる伝統とは何か」と問われると、簡単に答えが出ない。伝統に縛られていては新たな発展は望めない。伝統を乗り越えて伝統が生まれ、それをまた乗り越えて伝統が生まれる。永遠に続くこの繰り返しをこれからも見続けたい。

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至大荘開設前夜

201407-sp81大正13(1924)年に第一東京市立中学校が創立され、「智育、徳育、体育」が当初からの教育理念でした。
その三育を教育・訓練するため、13年夏には臨海学校(房州白浜)、林間学校(御殿場乙女峠麓)、14年夏軽井沢での林間学校、15年夏鵜原での臨海学校・林間学校をそれぞれ実施しました。
その経験から父兄会の支援により、昭和2(1927)年興津町字畑尻に約2千坪の土地を購入。同年4月設計着手、地均しを終え、集義寮、天寮、地寮、正寮、養気閣、大寮、観海亭の順で着工。7月10日すべての工事を終了。
建設計画は浅井教諭(地理)が中心となり、当時逓信省技師水島氏が設計者、父兄会会員のひとりである内藤正之助氏の手によって建設されました(左の俯瞰図は当時のもの)。
東京で全て調達した資材は、鉄道により、当時房総東線の終着駅だった上総興津まで送られました。当時の守谷は戸数150内外の集落で、漁業及び沃度会社の従業員のみで、旅館や飲食店はなく、浜での海水浴客は皆無だったようです。

(横田千明・高19)

―出典:創立70周年記念誌―

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沿革
大正
13年(1924)
4月 第一東京市立中学校創設(初代校長 成田千里)
半蔵門仮校舎にて入学式
14年(1925)
4月 第1回「母の会」開催
15年(1926)
4月 「父兄会」設立
8月 新校舎建設工事起工
昭和 戦前・戦中から戦後
2年(1927)
3月 房総/興津町守谷に土地購入約2千坪
7月 至大荘完成(集義寮、天寮、地寮、正寮、大寮、養気閣)
3・4年生至大荘へ出発
12月 新校舎完成
母の会独製ブルツナーピアノ寄贈
3年(1928)
1月 新校舎へ移転
3月 「社団法人父兄会」設立。
5年(1930)
10月 荒川堤防にてマラソン大会
6年(1931)
3月 体育館竣工
7年(1932)
10月 屋内プール完成
8年(1933)
9月 籠球部全国大会優勝
9年(1934)
10月 創立10周年記念式典挙行(展覧会・学芸大会・体育大会)
11年(1936)
10月 都下南多摩郡稲城村の土地2万坪購入、郊外施設「尽性園」開設工事を開始
12年(1937)
12月 尽性園 開園式挙行
14年(1939)
7月 至大荘嶽えい寮新築
16年(1941)
戦争により至大荘行事は中止
17年(1942)
7月 至大荘行事実施、この年を最後に9年間中断
18年(1943)
7月 都制施行により東京都立九段中学と名称変更
19年(1944)
勤労動員 4月~5年生 7月~4年生
12月~2年生勤労動員(郵便局)
8月~4・5年生授業中止
20年(1945)
3月9日 空襲の焼夷弾落下
3月27日 5年生と4年生同時に卒業式
8月15日 終戦を迎える
10月 進駐軍、校内の残存兵器撤去
21年(1946)
農地改革により尽性園の土地5,010坪収用される
昭和 戦後
22年(1947)
3月 6・3制教育制度実施のため第1学年を募集せず。都立九段中学併設中学(2・3年生)をおく
7月 希望者による至大荘行事実施
23年(1948)
3月6日 第20回卒業式(卒業生157人中95人が九段新制高校へ入学
4月 学制改革により東京都立九段新制高等学校となる。
24年(1949)
3月4日 高校第1回卒業式(144人)
3月19日 中学21回卒業式(卒業生243人はそのまま新制高校3年生へ
3月31日 併設中学校廃止
4月8日 入学式 初めての女子10人入学し男女共学開始
10月 創立25周年式典挙行
25年(1950)
1月 東京都立九段高等学校と改称
4月11日 男子263人、女子90人入学。本格的な男女共学実施。
この年から100分授業開始
26年(1951)
7月 東京都立九段高等学校として、1年生全員至大荘行事が復活
27年(1952)
5月 第1回クロスカントリー尽性園周辺で実施
28年(1953)
2月 体育館改修工事
6月6日 同窓会再建委員会第1回総会開催。菊友会と改称し発足。
会長福田英雄氏(中1)
29年(1954)
6月 創立30周年式典挙行
10月 卒業生名簿完成
30年(1955)
7月 新しい校旗制定
31年(1956)
2月 第1回南極観測隊長永田武氏(中3)の壮行会を行う
5月4日 開校記念日をこの日に変更
32年(1957)
5月 父兄会と母の会を合併、(社)東京都立九段高等学校父母会成立
34年(1959)
4月 75分授業開始・食堂開始
35年(1960)
9月 自校体操を実施(昼食時)
37年(1962)
11月 都立校演劇コンクールで演劇部優勝
38年(1963)
6月 校舎増築(特別教室等)
7月 至大荘天寮を復活
12月29日 至大荘冬期学習生活開始~1/4まで
39年(1964)
7月 至大荘生活NHKテレビ放送
8月 長野県白馬に1,021坪土地購入
11月 創立40周年・尽性園、旧哲明寮完成
41年(1967)
2月 都立高校入試学校群制度実施
44年(1969)
3月 学園紛争により、卒業式混乱
45年(1970)
4月 75分授業から50分授業へ・制服廃止
52年(1977)
6月 至大荘50周年記念祝賀会
59年(1984)
3月 尽性園4,000坪を稲城市の要請にて中学校新設用地として売却
60年(1985)
1月 尽性園新哲明寮落成
63年(1988)
4月 (社)東京都立九段高校父母会を社団法人九段とPTAに分離
平成
1年(1989)
10月 新校舎落成と創立65周年記念式典
4年(1992)
4月 コース制、単独選抜294人入学
6年(1994)
11月 創立70周年記念式典
10年(1998)
7月 至大荘游泳訓練の飛び込み中止
18年(2006)
4月15日 千代田区立九段中等教育学校開校式典
19年(2007)
6月 至大荘80周年
7月 千代田区立九段中等教育学校至大荘行事開始
21年(2009)
4月 東京都立九段高等学校閉校式典
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